2023年7月24日
竹鶴35年と日本のウイスキーの父・竹鶴政孝氏
目次
竹鶴35年といえばどんなイメージを浮かべますか?
高そう、希少性が高いなどが思い浮かびますが、実際どんなお酒なのかはわかりませんよね。
そこで竹鶴35年の特徴、竹鶴政孝氏についてまとめていきたいと思います。
竹鶴35年とは
竹鶴35年は酒齢35年以上の原酒を使ったブレンデッドウイスキーで、2007年から2011年まで本数限定で販売されました。
現在は終売してしまったのですが、今でも根強い人気がある1本です。
ブレンデッドウイスキーとは複数種類のモルトウイスキーとグレーンウイスキーを混合したウイスキーのことで、品質を均一に保つことができるため、非常に多くのウイスキーメーカーで作られています。
竹鶴ブランドの中で、ブレンデッドウイスキーは竹鶴35年だけで、厳選したモルトウイスキーとグレーンウイスキーをほぼ1:1の割合でブレンドし、長期熟成した深い味わいと華やかな香りの余韻が続くウイスキーとなっています。
竹鶴の特徴
ニッカウヰスキーから2000年に竹鶴12年ピュアモルトが発売されたのを皮切りに竹鶴17年、竹鶴21年、竹鶴25年が発売されました。
コンセプトは「ブレンデッドウイスキーのように飲みやすいピュアモルトウイスキーを」。
当時はウイスキー離れが進んだ90年代から徐々に人気が回復しつつある流れができておりました。
特に高度経済成長期中のウイスキーブームはサントリーが火付け役となり、和食とウイスキーを合わせるブームを広めました。
これによって料亭や日本料理店にもウイスキーが並ぶこととなり、世間一般的なお酒の選択肢として広まっていきました。
その後、今まで飲みやすさを売りにブレンデッドを販売していた生産者も、消費者が増えたことにより、さらに他社との差別化が図れるピュアモルトウイスキーの製造が始まっていきました。
ピュアモルトウイスキーとは原料の大麦麦芽100%で作られた原酒のみを使用して作られたウイスキーのことを指します。
サントリーは1984年にピュアモルトブランドの山崎を販売し始め、徐々に世間からも注目されていました。
ニッカは同時期にニッカピュアモルトを発売しており、2000年に新たに業務用市場向け商品として竹鶴12年を販売しました。
当時山崎が6,000円の定価だったのに比べ、竹鶴12年は若干少なめの660mlで2,450円と破格の値段だったこともあり、営業は好調。
宣伝も商品を前面に出さずとも〔竹鶴〕という創業者の名前をブランド名にしたことで話題となり、販売戦略として良い結果となりました。
創業者の竹鶴政孝氏といえば「日本のウイスキーの父」と呼ばれる偉大な人物です。
竹鶴ブランドを語るには創業者を知る必要があるでしょう。
日本のウイスキーの父・竹鶴政孝氏とは
1894年広島、竹鶴酒造を営む竹鶴敬次郎氏の三男として生まれました。
父・敬次郎氏は酒造りに非常に精力的で、当時抜群のブランド力を誇った兵庫の灘に負けぬ酒をと躍進していました。
政孝氏はそんな父からの影響を受け、大阪高等工業学校の醸造科に進学します。
在学中、洋酒に興味を持っていた政孝氏は先輩を頼り摂津酒造に入社。希望であった洋酒の製造部門に配属となりました。
その後主任技師となった政孝氏の作った酒は、他のメーカーのお酒より成分が安定していたため、世間でも評判の酒造職人となったのでした。
19世紀の日本では、ウイスキーといえばアメリカの模造品ばかりが製造されている時代で、純国産ウイスキーはどこの酒造メーカーも作っていませんでした。
そこで摂津酒造は日本第一号の純国産ウイスキーの製造を計画し、ウイスキー造りを学ぶため政孝氏が選ばれたのでした。
ジャパニーズウイスキーの礎となったスコットランド留学
留学先はスコットランド、グラスゴー大学。そこで有機化学と応用化学を学びます。
大学での就学以外にも多くの蒸溜所へ見学に訪れました。
ほとんどの蒸溜所は日本人に技術を盗まれることを懸念し断られますが、最終キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所にて実習を積みます。
ヘーゼルバーン蒸溜所はマキー社の〔ホワイトホース〕ウイスキーの製造工場でした。
当時のホワイトホースの製造工場は4か所ありました。
北部エルギン区域「クレガレヒ」、南部「アイラ」、グレスゴー市の「カンベルトン」と「ヘーゼルバーン」にあり、ヘーゼルバーン以外が単式ポットスチルウイスキー=モルトウイスキーの製造工場でした。
実習の許可が得られるようマキー社の他の蒸溜所にも依頼を重ねていましたが、許可が得られたのがヘーゼルバーン蒸溜所という連続式蒸溜をするグレーンウイスキーの製造工場のみでした。
ヘーゼルバーン蒸溜所で実習したことを実習報告として摂津酒造常務の岩井に提出しました。
日本のウイスキー造りはこの実習報告が多大な影響を与えており、通称「竹鶴ノート」といわれています。
留学中にグラスゴー大学の知人の縁で、のちの妻となるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、1920年スコットランドの地で結婚。
当時としては珍しい国際結婚でした。同年11月にリタと共に帰国し、本格的に純国産ウイスキーの製造がはじまるはずでした。
帰国・退社→寿屋入社
しかし残念ながら当時は第一次世界大戦後の戦後恐慌の影響によって、計画を進めることは困難を極め、結局1922年に政孝氏は摂津酒造を退社してしまいました。
1923年、寿屋(現サントリー株式会社)はウイスキー国内製造を企画し、当時の社長である鳥井信治郎氏はスコットランドより適任者を呼び寄せようと考えました。
そこで、問い合わせてみたところ「日本には竹鶴がいる」との回答が。
政孝氏とは以前、模造ワイン製造を委託していたことがあり面識がありました。その頃政孝氏は大阪で化学の教師として教鞭をとっていましたが、同年6月にスカウトされ寿屋に入社しました。
山崎蒸溜所の建設
政孝氏はまず製造工場の土地探しから始めることとなります。候補地としては北海道を第一候補に挙げていたが、鳥井氏より消費地から遠いという理由で流れてしまい、別の候補地を探すことに。
大阪近郊の候補地の中で、良質な水・風土・霧が多いという条件から山崎に決まりました。
その後製造設備や設計を何度も調整し1924年冬に山崎蒸溜所は竣工し、政孝氏は初代所長となりました。
今の山崎蒸溜所より小さな工場で製造を開始しましたが、ウイスキー造りは時間がかかり、なかなか収益を上げることができませんでした。
出資者からも不満の声が噴出してきたため、鳥井氏はやむなく初年度に仕込んだ原酒を発売しました。
政孝氏としてはブレンドし味の調整を行いたかったものの、致し方ない状況から同意するのでした。
1929年、政孝氏の製造した初めてのウイスキー「サントリー白札」が発売されました。
しかし、味わいが今までの模造ウイスキーと異なり本格的であるため世間からは受け入れられず評判は良いものではありませんでした。
鳥井氏は政孝氏がスコッチの製法にこだわりすぎていて、日本の消費者に合っていないのではないかと思い始めます。
また、政孝氏も寿屋に対して不信感を募らせていきました。
ニッカウヰスキーの前身・大日本果汁株式会社設立
1934年、後継技師が育ってきたことをきっかけに寿屋を退社します。
そして政孝氏が理想としていた北海道余市でウイスキー製造を開始することを決意し、同年7月に「大日本果汁株式会社」を設立。代表取締役に就任します。
初めはウイスキーからの収益は見込めないため、事業開始当初は余市特産のリンゴをつかってリンゴジュースを作り収益を作ることになります。
地元のリンゴ農家たちは落ちて傷ついたリンゴも一つ残らず買ってくれると噂になり、工場前にはリンゴを積んだ馬車の列ができたそうです。
1935年、日果林檎ジュースの出荷を開始、1940年社名を「ニッカウヰスキー株式会社」に変更し、製品第一号である「ニッカウヰスキー」と「ニッカブランデー」を発売しました。
それまで寿屋と鳥井氏には恩があるため、リンゴジュースを製造販売する会社だとしていました。
そのため会社設立後、しばらくは酒造免許も取らずに進めており出資者もリンゴジュースの会社だと思っていた中、ウイスキーとブランデーが発売され驚いたそうです。
余市の地で醸造を開始した政孝氏でしたが、蒸溜所建設にあたってこだわった自然環境はどのようなものであったのでしょうか。
蒸溜所と環境
スコットランドに似た冷涼で海風が届く湿潤な気候、豊かな水源を求めた結果、小樽の西、積丹半島の付け根に位置する余市が選ばれました。
標高1,500mの余市岳に降り積もった雪は春に余市川に注ぎ込まれ、豊かな自然を作ります。
石狩平野ではスモーキーな香りづけにスコッチで使われる原料のピート(泥炭)や石炭も採掘できた正に理想郷です。
蒸溜所内に大きな釜があるのですが、政孝氏がスコットランド「ロングモーン蒸溜所」で実習を受けた石炭直下蒸溜ができる大きな釜で、現在は世界でも希少な蒸溜法となっています。
蒸溜の際に使われるポットスティルは下向きのストレートヘッド。アルコール以外の成分も削がれることなく原酒になり、複雑な味わいを与えます。
石炭直下であるため、底部は1000度を超える高温になり、適度な「焦げ」ができることで独特の香ばしい香りとなります。
樽は当時より職人によって手作業で作られ、長らく技術が受け継がれています。
こだわりの地でできた「竹鶴ブランド」の中で竹鶴35年とはどういった特徴があるのでしょうか。
竹鶴35年の特徴
竹鶴の特徴といえば石炭直下蒸溜で重厚感のある香りが出ることと、ピートからくる苦み、樽材の甘い芳醇な香りがすべてまとまり、原酒の熟成具合によってまろやかさが合わさるところにあります。
竹鶴の中でピュアモルトの最長熟成が25年で、これまでの竹鶴と違い繊細でまろやかな表現が多くなることは想像に難くありません。
竹鶴35年はその他の竹鶴ブランドと違いブレンデッドであることは前述した通りですが、通常ブレンデッドにする理由は安定化と飲みやすくするためといえます。
竹鶴35年のラベルには竹鶴政孝氏のウイスキーづくりの軌跡が書かれており、政孝氏直伝の技術の結晶であることがうかがえます。
政孝氏はスコットランドの地で複数の蒸溜所に足を運んだが、その中でボーネス蒸溜所で出会ったカフェ式蒸溜器を宮城峡蒸溜所に導入していました。
このカフェ式蒸溜器はトウモロコシや小麦、ライ麦を原料とし、甘く香ばしい風味のグレーンウイスキーが蒸溜できます。
当時、1960年代にはすでに最新の蒸溜器が開発されていましたが、政孝氏はこの蒸溜器にこだわったのでした。
竹鶴35年は味のためではなく、まさにウイスキーづくりの結晶として生み出されたブレンデッドだったのです。
竹鶴35年定価
そんなこだわりの竹鶴35年は2007年に1200本限定で70,000円(税抜)でリリースされました。
2011年まで本数限定で発売されていましたが、原酒不足によって終売となりました。
入手経路
終売品のため、定価での販売は期待ができません。
手に入れるとなるとネットオークションなどになりますが、流通量も少なく、価格も100万円近くまで高騰しているため、幻の銘柄となってしまっています。
まとめ
手に入れるのが容易でなくなった竹鶴35年ですが、手にすることができるかもしれません!
弊社ではお酒の新たな市場価値に目をつけ、実物資産としての売買を行っております。
そのため終売品や高額取引されているお酒を一般向けのネットオークションサイトより多く保有しております。
お探しのお酒がございましたら是非弊社Wgainのご利用をご検討くださいませ。